於大の方は享禄元年(1528)、三河刈屋城主水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、当時では武士の権力の取り引きとして通常に行われていた攻略結婚により、岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年男子をを出産しました。これが竹千代、後の徳川家康となる。
しかし、父水野忠政が病死した後、刈屋城を継いだ兄信元が織田方に付いたので、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈屋に帰すこととなった。
その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁したが、於大は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられている。
家康も生母の至情を忘れることなく、天下統一の後には、再婚しているにも拘わらず、実家の者として於大を迎え入れ、久松家を親戚として尊重した。
夫の久松俊勝逝去の後は髪をおろし「傳通院」と号した。家康の天下統一を見て、慶長7年(1602)8月29日、家康の滞在する伏見城にて逝去。
於大の出生地愛知県知多郡東浦町では、「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。