当山は、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから200年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。正保4年(1647)には、家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り諸堂伽藍を整えて参りました。
教学教化面では、慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人を傳通院に移して、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席とし年を重ねるにつれ、学寮に席をおくもの千人を下らぬという状況でした。
明治以後は困難な時代にもかかわらず、明治24年(1891)芝三縁山より浄土宗学本校(現大正大学の前身)を無量山へ移転、更には傳通院境内に淑徳女学校を設立、又、昭和4年傳通会館が設立され、仏教の街頭進出の拠点として檀信徒のみならず、地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動を行い、教学の振興と共に社会事業も精進いたして参りました。
しかし、このような寺歴の中にも、享保6年(1721)、同10年(1725)、明治41年(1908)と三度の大火にあい、その再建もむなしく、第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰しましたが、戦後多くの障碍の中で昭和24年本堂を再建(七十三世大河内隆弘上人)、続いて昭和63年には新世紀に対応できる宗教活動を目指して新本堂を建立、平成9年、繊月会館を建立、平成11年には観音堂(休憩所)を建立(七十五世吉川哲雄上人)し、現在に至っております。

(1341年〜1420年) 三日月上人
常陸国久慈郡巖瀬(現在の茨城県那珂郡大宮町上岩瀬)の城主白石志摩守宗義の子として誕生、幼名を文殊丸。
5歳の時、父宗義が戦で非業の死を遂げ、その3年後、父の菩提を弔うために瓜連常福寺・了実上人に就き出家し、名を聖冏と改めた。上人はもとより聡明なお方であったが、尚一層のご修行と勉学に励み、広く仏教全般を学ばれ、更には神道・和歌にも深く通じた。残された著作は百巻を越え、特に「選択伝弘決疑鈔直牒」十巻は、応永3年(1396)に起こった「佐竹氏の乱」を避け阿弥陀山(不軽山ともいう)の洞穴に身を隠し、干し柿を食べて飢えを凌ぎ、洞穴の滴を硯に受けて撰述されたものである。
聖冏上人当時の浄土宗は、「寓宗」「附庸宗」と呼ばれ、未だ独立した宗として認められてはいなかった。それを嘆かれた聖冏上人は伝法を確立し、現在の浄土宗の基礎を築いた。
晩年、弟子の聖聡上人(増上寺開山)の請いにより小石川に草庵を結んで移り住み、念仏教化の日々をお過ごしになられ、応永27年(1420)9月27日、80歳でご往生された。
上人は額に「三日月」の相があったという言い伝えから「繊月禅師」とも称され、「繊月会館」の名称は聖冏上人の遺徳を現代に顕彰するために命名された。