法名:光含院弧峯心了居士
水戸家の重臣。時の老中柳沢吉保と好を通じ、吉保の野望を助けようと図ったところ、偶々主君の水戸光圀公に知られ、小石川水戸邸で元禄7年(1694)お能の中入の節に楽屋に於て、光圀公自ら紋太夫を誅される。その為逆臣として世に知れ渡っている。紋太夫が誅さた席に居合わせた西村清林(狂言作者)により、西村家の墓所に埋められた。
法名:清秀院殿忠正明義居士
幕末勤王家、羽前(山形県)清河村斉藤治兵衛の長子。嘉永4年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積良斉に儒学を学び、又昌平黌に入り、後自ら弟子を教育、安政・文久の間志士と交り、尊攘を語り、倒幕の義兵を挙げようとして失敗。文久3年(1863)4月13日、幕府方の役人の襲撃を受けて死亡した。34歳
(隣に貞女阿蓮の墓がある)
(1835〜1873)
尊攘派の公卿として生麦の変ではその総師となり、維新後は政治家として活躍する。
春川と号して、詩作・和歌土佐派の絵にも優れた才能を示し、又剣術・馬術にも長じ、急進的な攘夷論を主張し通す。文久3年(1863)「七卿落」の事件で三条実美ら六卿と共に長州へ下るが、王政復古により京都に帰ると、慶応4年(1868)参与に任ぜられる。九州鎮撫総督兼外国事務総督、長崎府知事、外国官知事等に就任後外務卿となり、オーストリア・スペインなどとの条約締結の全権委員となる。明治6年37才で病没。墓碑は「都指定旧跡」
法名:顕密院千樫道恵居士
明治19年、千葉県生れ。少年の頃から歌壇に投稿していたが、千葉の教員講習所を出て、近村の小学校に奉職後は、「心の花」「比牟呂」「馬酔木」に本格的に投稿を続け、特に「耕余漫吟」二十首は伊藤左千夫の激賞するところとなり、それを機縁に明治40年上京し、左千夫の門に連る。同門の茂吉、赤彦らと左千夫を輔けて「アララギ」の発展に大きく寄与。後年白秋、夕暮らの「日光」に転じ、その実生活に根ざして平淡の中にも深い味わいを湛えた独自の歌風は、近代歌壇に際立つ存在として光を放った。
昭和2年8月12日 41才で没。
傳通院正門を入り左側に千樫の歌碑がある。
【分骨】 (1892〜1964)
法名:凌霄院殿詞誉紀精春日大居士
明治25年、和歌山県生れ。生田長江に師事し、その後永井荷風の作風を慕って、慶応大学文科に入学。ここで同級の詩人堀口大学と生涯の友交を結ぶ。大正7年「田園の憂鬱」を発表し、新進作家としての地位を確立する。又これと前後して第一詩集「殉情詩集」(大正10年)を新潮社より刊行、詩人にして作家として以後数々の作品を発表する。昭和10年には芥川賞が制定され、その詮衡委員となる。昭和35年には文化勲章を受け、同39年5月6日心筋梗塞のため自宅にて逝去。72才。従三位に叙せられる。忌日を春日忌と呼ぶ。京都知恩院、紀州勝浦町下里竜蔵寺、傳通院に分骨埋葬される。
(1879〜1939)
法名:佛蓮社光誉増阿慶輝道人
明治12年、福島県生れ。東京帝大文学部哲学科に学び、宗教学を専攻する。海外留学生として、欧州各国を巡遊し、先進諸国の社会事業視察の傍ら、西域発掘の調査研究に励む。帰国後、渡辺海旭と共に宗教大学に社会事業研究室を開設し、学者としても秀れた業績を残し、大正8年に東京帝大の講師となり、同12年には文学博士の学位を得、翌年に同大学の助教授となった。特に大正15年に発表の「三階教の研究」は帝国学士院より恩賜賞を授けられ、数多い著書の中でも代表的なものである。大正大学、法政大学、東洋大学等の教授・講師を歴任し、昭和9年には大正大学学部長の要職に就任したが、寺院には住すること遂になく、昭和14年6月10日、61才にて寂す。
(1891〜1939)
法名:西蓮社諦誉誠阿真瑞霊道
明治24年、大分県に生れる。大正6年、宗教大学本科を卒業。同14年に同大学講師、図書館司書を歴任、15年浄土宗務所に入る。
昭和8年に淑徳高等女学校の第五代校長に招聘され、その間、大乗学寮、仏教研究所を設立するなど学界に裨益するところ大であった。昭和14年1月25日、48才で没。
(1895〜1976)
法名:玄相院殿達誉和雅悟道大居士
洋画家。明治28年、東京都神田に生れる。大正3年慶応義塾大学経済学部に入学するも、画家志望の念強く同校中退、本郷洋画家研究所に通う。同10年第3回帝展に入選、同11年渡仏、アカデミーランソンに通う。帯仏中サロンドートンヌの会員となる。同14年第6回帝展に入選、16年仏より帰国、昭和26年東京芸大講師、同27年毎日美術賞受賞、同30年国際展賞受賞、同39年武蔵野美術大学教授。同48年ブラジル政府よりコメダンドールオフィシャル勲章を贈られる。同49年勲三等瑞宝章授章。同51年6月急逝、81才。同日勲二等旭日中授章を贈られる。作品は、近代美術館、大原美術館をはじめ各地方の美術館に所蔵されている。
法名:本空信士・本理信女
大志場磯五郎と腰元のはつは、深く言い交した仲だったが、両人とも肺病を煩い相添えぬ悲しみのあまり、宝永2年(1705)、傳通院の門前で心中して果てた。
この心中事件は、江戸で初めての心中としても名を残し、二人の墓を世に夫婦塚と言い、胸の病の人が平癒を祈願すると特に利益があらたかであると言われた。
法名:祥道琳瑞大和上
天保元年、出羽国に生れる。17才で剃髪、名を琳瑞と改める。20才の時、傳通院が山内処静院を律院するに当り、その指導者として推薦され福田行誡上人の許で修行する。安政4年、28才の時、処静院律院の住職となる。慶応3年(1867)38才で凶刃に倒れる。琳瑞は国事を論じ、特に水戸烈公の信任が厚かった。徳川家の菩提所である天台・浄土の二宗からは勤王僧が出にくい立場にあったが、傳通院を背景に佐幕の体面を保ちつつも内面討幕、勤王僧として海防の急務を談じ、幕臣山岡鉄舟、高橋泥舟を指導し、清河八郎と交遊を重ねたことは異例の存在であった。
法名:温徳院殿剛誉清簾天台道士
江州(滋賀県)膳所藩士杉浦喜十郎斐章の次男、明治3年(1870)膳所藩命により東京大学南校に入り、英学普通科を修了後、明治9年、英国留学を政府より命じられる。明治18年、東京英語学校を創立、明治19年、条約改正の議が起ると、国事に奔走、明治21年同士と共に雑誌「日本人」を発行して国粋の発揮を主張する。
後文部省参事官兼専門学務局次長・国会議員・東亜同文書院長・教育調査会員、大正3年より12年間、東宮御学門所御用掛、良子女王殿下(昭和皇太后)の倫理科担任を嘱託される。
大正13年4月13日 70才で永眠。
法名:源徳院簡雲虚舟居士
慶応元年、愛媛県生れの署名な漢学者。
東京女高師の教授として長く教壇に立ったが、中国に渡り古書の研究に生涯をかけ、「論語解義」「大学解義」「孟子通解」「老子解義」等、多くの著作をする。又、編纂した漢和字書「字源」「故事成語大辞典」は現在でも漢書を嗜む読書家、研究者に愛用されている。
(1917〜1978)
法名:蒼岳院殿雋誉円月錬哲大居士
大正6年、岡山県に生れる。慶応大学文学部支那文学科を卒業。この年、清河八郎の妹辰の孫、斉藤栄子と結婚。処女作「文久志士遺聞(清河八郎)」を泰東出版社から刊行。終戦後、「日本読書新聞」の復刊に努め、昭和24年、同社を退職し文筆に専念する。26年「デスマスク」・「イエスの裔」を三田文学に発表。「デスマスク」は第25回芥川賞候補となり「イエスの裔」は第26回直木賞を受賞する。昭和34年より週刊新潮に連載の「眠狂四郎無頼控」に始まる眠狂四郎シリーズや「柴錬立川文庫」の連作は大衆文学の伝統を戦後の土壌に開花させたものとして、多くの柴錬ファンを生む。昭和53年6月30日没、61才。墓は眠狂四郎を表す直径58p黒色の円球石(円月)が左側に据えられ、右側に八段の正方形の石を重ねた斬新なものである。
(1890〜1966)
法名:礼譲心院温蓮社謙誉恭阿勧学良信
明治23年、茨城県生れ。大正4年宗教大学を卒業する。昭和7年千葉県護国寺の住職となり、その後数ヶ寺を経て、同26年千葉市大厳寺の第六十世となる。学生時代より渡辺海旭に師事し、社会事業に着手し多くの功績を残す。先ず、大正8年に巣鴨のマハヤナ学園を創設し、後自ら学園長となり隣保事業を組織的に展開したが、11年に浄土宗海外留学生として欧米各国の大学での社会事業、女子教育の分野を研究し、帰国後は直ちに巣鴨に大乗女子学院(後の巣鴨女子商業高等学校)を創設、昭和19年には淑徳高等女学校長、同24年大乗学園理事長、同40年に淑徳大学長に就任。同27年サンパウロ市に南米浄土宗別院日伯寺を開創、同32年日伯寺に同寺学園を併設し、日語学校、老人クラブを開設するなど、海外にまでその業績を広めた。昭和41年、74才にして寂す。
(1894〜1972)
法名:深蓮社徹誉念阿一道晶史諦心
明治27年山形県生れ。大正8年、宗教大学卒業後、内地留学生として神道を研究する傍ら黒谷に遊び、著述業に励む。大正13年に創作「法然」を処女出版してから数年の間に「創作円光」「佛教哲学思想大系」「新訳楞伽藍」「勅修法然上人伝」「国訳大品般若経」等を次々と発表する。その後東方書院を創設し、佛教図書出版事業に乗り出し、「神佛分離史料」「大蔵経講座」「昭和新纂国訳大蔵経」等の全集を続々刊行し、出版書目数百点に及んだ。又、浄土教報社の主筆となって「浄土宗布教全書」全24巻を刊行した。昭和47年5月6日、79才にして寂す。
(1905〜1991)
法名:宝蔵院殿精誉浄勲明治大居士
島根県浜田市生れ。東京美術学校卒業、33才で文展特選、昭和15年法隆寺壁画模写主任に任命され、同26年の作「赤い椅子」で文部大臣賞受賞、同29年の日展出品作「まり千代像」で芸術院賞、同42年より同43年第2回法隆寺壁画再現模写主任、桜が好きで翌年皇居新殿の障壁画「桜」を画く。同43年芸術院会員、同49年文化勲章受章。当代きっての風俗美人画の代表画家といわれ、簡潔で線描を駆使した美人画を戦後に開花させる。一方、黒い輪郭線を使った橋本様式といわれる独創的な画風を作りあげた。平成3年3月25日逝去。86才。